小川真理(明治大学兼任講師、日本中世英語英文学会会員)
【はじめに】 |
『シランスの物語(Le roman de Silence)』は、Heldris of Cornwallという人物が書いた中世フランスの物語で、6706行にわたる韻文で書かれています。Heldris of Cornwallについてはよく分かっていません。『シランスの物語』のテクストが残されている写本は、1200~50年頃に制作されたと考えられる一冊のみ現存します(Nottingham University Library, WLC/LM/6)。この写本はノッティンガムの貴族の館、ウラトンホール(Wollaton Hall)において、1911年、”old papers—no value”と示された箱の中から発見されました。写本は1428年のラヴァル城(フランス)の略奪後にイングランドにもたらされたと考えられています。13世紀のピカルディー方言及びフランシアン方言の古仏語で書かれたこの写本に収録されているのは、フランス語のロマンスが6作、その他ファブリオ中心に12作の合計18作品です。写本には、83点の細密画も描かれています。[1] 写本が比較的近年になって発見されたこともあって、研究は多くなく、写本のテクストもようやく1960年代になって学術雑誌Nottingham Mediaeval Studiesに少しずつ、数年にわたって発表されました。[2]男子として育てられる少女が主人公であるところから、自己同一性、自己認識、ジェンダー、フェミニズム、クィア理論など様々な観点から研究が可能な、大変に興味深い作品です。 |
【1.あらすじ】 |
<物語の背景> 舞台は中世イングランド。イングランド王Evanは、ノルウェー王との戦いを契機に、和平のため、ノルウェー王女Eufemeと結婚した。ある時、二人の伯が、伯爵令嬢である双子の姉妹と結婚し、相続のために長女を巡って決闘した結果、相討ちになってしまう。この一件に懲りたイングランド王は、女性の相続を禁止することにした。 <Cadorの結婚と子供の誕生> イングランド王がウィンチェスターに向かっていたところ、ドラゴンが現れ、王の臣下をたくさん殺してしまった。王は、好きな女と娶わせてやると言って、ドラゴンと戦う者を募る。王妃の侍女Eufemieに恋していた、王の甥で臣下でもあるCadorは、見事ドラゴンを退治し、治療にあたったEufemieとめでたく結婚した。 やがて二人の間には子供ができるが、女性への相続が禁止されているため、子供の性別がどちらになるだろうか、という懸念が生じる。Cadorは、自分のいとこの女性のみを出産に立ち会わせ、赤ちゃんの性別に関係なく、「男子誕生」と発表してもらうことにした。そして、子供が女子であった場合は、相続ができるように、男子として養育する決意を固め、妻もこれに同意する。「自然(Nature)」が精魂込めて、比類なく美しく造形した赤ちゃんはやがて無事誕生したが、性別は女であった。Cadorは子供をSilenceと名付け、事情を打ち明けた家令に我が子を預け、男子として育ててもらう。森の中に準備されたSilenceの住居は、秘密を守るためか、柵と、四つの鍵の付いた門に守られていた。 <Silenceの成長と吟遊詩人たちとの出会い> 家令宅でSilenceは順調に成長し、やがて父親から事情の説明を受ける。12歳になると、男性として育っていることで、Silenceにも悩みが生じ始める。そんな折、家令の家に迷い込んだ二人の吟遊詩人の世話をしたSilenceは、将来に不安を感じる中で、確実に技芸を身に着けられる道として、吟遊詩人たちと共に歩んでいくことを決心した。Silenceの失踪を知った父親Cadorは、あらゆる吟遊詩人を追放し、捕らえた場合は死刑に処すと決めた。 一方、Malduitという偽名を名乗って吟遊詩人たちと行動を共にするSilenceは、三年のうちに、彼らをも上回る技芸を身に着け、人気もより高く、稼ぎも良かったので、彼らに妬み憎まれるようになる。吟遊詩人たちはSilenceを殺そうと謀るが、それを知ったSilenceは彼らと別れ、家族を憐れむ気持ちから、一旦帰省することにした。 <家族との再会とイングランド王の宮廷への出仕> 故郷に戻り、宿屋の主人から、吟遊詩人業が禁じられていることを知らされるSilenceだが、構わず演奏を行って父親の許に連行され、殺されそうになってしまう。この吟遊詩人は実はSilenceだと老人に言われたCadorは、Malduitと名乗るSilenceを私室に呼ぶ。泣く父親を見たSilenceは身元を明かし、母斑でもって自分の正体を証明した。Silenceの願いにより、吟遊詩人業は再び許されることになった。 噂を聞きつけたイングランド王に招かれ、Silenceは宮廷に出仕する。しかしそこで、王妃がSilenceに夢中になってしまった。二度迫っても拒まれた王妃は、王に「Silenceに襲われた」と訴え出る。王は自らの評判も考えて、処刑を求める王妃の願いは聞き入れず、Silenceの歓迎と騎士叙任を願う手紙を持たせて、自身の主君であるフランス王の許へSilenceを送ることにした。一方で王妃は、Silenceの処刑を依頼する手紙を書き、書記に会った際に手紙をすり替えるのだった。 <フランス宮廷でのSilence> フランス王の宮廷でSilenceは歓迎されるが、持参した手紙の中でSilenceの処刑が命じられていたため、フランス王は困惑する。諸侯が審議した結果、そもそもイングランド王がそのようなことを書き送るだろうか、という疑問も生じ、Silenceは助命された。イングランド王には、Silenceが持参した手紙を同封した書簡が返送され、イングランド王は書記の証言から王妃の仕業を知ったが、自らの体面も考え、何もしなかった。 一方、何も知らずにフランスで楽しく暮らしていたSilenceは、17歳半で騎士叙任され、馬上槍試合でも活躍し、優れた騎士として認められるようになる。 <イングランド王の宮廷への帰還> Silenceは、イングランド王に対する反乱の鎮圧を助けるため、王の依頼のもと、仲間たちを連れてイングランドへ戻った。戦いで大活躍したSilenceは反逆者の右腕を切り落とし、勝利を飾る。これを機に再び王妃がSilenceに言い寄るが受け入れられず、恨みを抱いた王妃は王に直訴した。それを受けて王は、面目を失わずにSilenceに復讐する方法があったら教えて欲しい、と妃に頼む。王妃の進言を聞いた王はSilenceに対して、マーリンを捕らえて連れてくるように、という難題を課す。マーリンは女性の策略によってのみ捕まえることができる、とされていたため、「男性」であるSilenceは、この命令を遂行できず、この任務を通じてSilenceは排除されるはずだった。 <冒険の遂行と大団円> マーリンを探し求め出発したSilenceは半年後、長い白髪の男に遭遇し、彼に状況を説明したところ、マーリンの捕まえ方を伝授され、必要となる物も提供される。忠告通りに行動したSilenceは、見事マーリンを捕らえ、宮廷に戻ることができた。 道中マーリンは、新しい靴を運ぶ農民、施しを求めるハンセン病患者、埋葬で男が泣く様子に笑い続ける。宮廷に着けば、王や、王妃の取り巻きの修道女に対しても大笑いが止まらない。理由を問い質されたマーリンは、農民はすぐ死んだこと、施しを求めていた者たちは実際には富裕であること、そして埋葬では、泣いていた男ではなく、葬儀を挙げていた司祭こそが死んだ子の実の父親であることを明かした。さらに、宮廷で笑いが止まらなかったわけは、王妃が王の名誉を汚したこと、修道女は実は男性で王妃の愛人であること、Silenceは女性であることだと述べた。これらの言葉が全て事実であることが確認されると、Silenceもこれまでのいきさつを王に説明した。イングランド王は、女性の相続を認めることを決め、「修道女」と王妃を処刑し、Silenceを新たな王妃として迎えた。 |
【2.アーサー王伝説とのつながり】 | |
アーサー王伝説とはいっても、『シランスの物語』には、アーサー王や円卓の騎士たちは一切登場しません。唯一登場するのが魔術師マーリンです。登場人物に関しては、これがアーサー王伝説との唯一のつながりです。ただ、他にもアーサー王伝説との関連があります。それはSilenceの血筋で、Silenceはマーリンを捕らえる際、次のように述べています。
実は、アーサー王の母親であるイグレーヌの夫であったコーンウォール伯がSilenceの祖先であるというのです。もちろん、Silenceの母親であるEufemieはコーンウォール伯の一人娘であるため、[4]血筋を遡っていけばゴーロイスに行き着くのかもしれませんが、物語の終盤で突然この血統が明示されるため、校訂版の編者Sarah Roche-Mahdiは、このくだりが作品中において予期せざる記述であると述べています。[5]有名なアーサー王受胎のエピソードからどれほどの年月が経過しているのかは、作品からは不明ですが、Silenceは、アーサー王の母親の夫の子孫で、アーサー王の遠縁ということになります。また、マーリンは間接的にしろ、Silenceの先祖を死に追いやったわけで、Silenceとは因縁の間柄と言えなくもありません。 |
【3.マーリンの果たす役割】 |
Silenceがゴーロイスの子孫であるとはいえ、舞台設定がアーサー王の宮廷ではなく、王も騎士たちも登場しない中で、作品の最後の方にマーリンが登場することはやや唐突な印象も与えます。ただ、そのマーリンは、物語の中で重要な役割を果たします。すなわち、物事を予知し、全てを見透かす彼の能力を使って、隠されてきたものを明るみに出すことです。それまで、イングランド王妃はSilenceに言い寄る一方で、密かに女装した愛人を囲い、Silenceは性別を偽って生きてきました。これらを全て、マーリンが宮廷の皆の前で暴露することで、物語は一気に終局に向かいます。 校訂版の編者であるSarah Roche-Mahdiは論文の中で、吟遊詩人として帰省したMalduitの身元を父親のCadorに明かそうとした老人も、マーリンの捕まえ方を教えてくれた長い白髪の男も、どちらもマーリンであると指摘しています。[6]仮にそうであるならば、マーリンはMalduitことSilenceが実の父親に処刑されるという事態を防ぎ、かつ、悪役たる王妃がSilenceを破滅させるために命じた任務をSilenceが遂行できるように助けたので、Silenceにとっては重要な局面で命を救ってくれる存在であったことになります。加えて、疑いなくマーリンである最終盤のマーリンの言動は、悪役の退場につながり、勧善懲悪の筋書きを実現します。Roche-Mahdiの主張を受け入れた場合、マーリンは複数の場面でSilenceを支えてくれたことになるわけですが、その動機は判然としません。作者は、デウス・エクス・マキナ(deus ex machina:ギリシア演劇において急場を救うため突如舞台に出る神)としてマーリンを登場させ、さながら神が劇中の問題を一挙に解決するごとく、マーリンの超自然的な能力を利用して、一気にプロットを推し進めたのかもしれませんし、マーリン自身がSilenceの祖先を死に追いやったことの埋め合わせとして、Silenceを見守り、支えてくれているということなのかもしれません。あるいは、マーリンはイングランドを救おうとしているという解釈も考えられます。イングランド王は外国から迎えた邪悪な王妃に振り回され、国王としての権威を蝕まれています。[7]マーリンが王妃の所業を暴き、優れた性質を備えたイングランド人であるSilenceを新しい王妃に据えることで、国政はより安定する可能性があります。 |
【4.Silenceの名前】 | ||
現代フランス語でも、”silence”という単語は静寂、沈黙といった意味の男性名詞です。中世においても意味は変わらず、Dictionnaire du français médiévalでは、この名詞を”s.m. et f., silence”と定義しています。[8]一つ注目すべき点として、男性名詞および女性名詞として使用される、という項が挙げられます。名詞の文法上の性は、Silenceの人格形成や、周囲からの捉えられ方に関わってきます。 Silence命名の際、父親は次のように述べます。
通常の呼び名はフランス語のSilenceであるとしつつも、父親はラテン語形の名前に言及します。ラテン語でsilenceを意味するのは中性名詞のsilentiumですが、[9] 男性名詞の語尾である–usを付けた名前を命名し、万一本当の性別が明るみに出た場合は、女性名詞の語尾である–aに切り替えれば良いというわけです。結果的には、主人公の性別は物語の最終盤まで隠されたままだったため、Silenceは対外的にはずっと”Silentius”であり続けました。しかし日常では、男性名詞でも女性名詞でもあり得た、フランス語のSilenceという呼び名が用いられます。これは、公には常に男性であり、男子として育てられてきても、身体的には女性であるという、両性の特徴を兼ね備えた主人公の状況を反映していると言えるでしょう。[10]また、Silenceの性別が、単純な語尾変化に収斂してしまうところは、Silenceの性別の不確定性も表していると考えられます。と言うのも、父親は、もしSilenceに弟ができればSilenceを女の子に戻すつもりなのです。[11] 主人公はまた、一時期、偽名を使っています。Silenceが吟遊詩人たちに従って各所を巡った時、誰にも知らせずに出発したのは、男性としても女性としても将来に不安を感じる状況で、吟遊詩人たちに仕えれば、さしあたり楽器演奏という、役に立つ技能は身に着けることができると考えたからです。行方を追われないよう、Silenceは偽名を考えました。
テクスト中でも説明されていますが、中世フランス語で”malduit”は、形容詞となる過去分詞で”mal élevé, qui se conduit mal” [12]即ち「不適切に育てられた、品行の良くない者」という意味を持ちます。この名前は、次項で扱うSilence自身の葛藤と自己認識をよく表しています。主人公は、自らの自然本性に照らして、育てられ方が不自然であったことをよく自覚しています。名前は個人のアイデンティティの重要な構成要素の一つですが、Silenceは自分の複雑な自己形成、自分に対する自身の見方を自ら偽名にこめているのです。両親は、ひとえに娘に相続させたい一心で、良かれと思ってSilenceを少年にしているのですが、本人はその事情を理解しつつも、複雑な思いを捨てきれないでいることが分かります。Silenceは男子として立派な教育を受けており、女性としての教育を欠くために、手芸などもできません。本来、当時の女性としてできるはずのことができない—これもSilenceの悩みを深める要因の一つです。 |
【5.Silenceの葛藤と自己認識:氏か育ちか―「自然」と「教育」の争い、「理性」の忠告】 | |||||
Silenceは、自分の育てられ方と実際の性別が違うことに気付くことができる年齢になった頃、父親から事情を説明されます。Silenceは性別を隠し通すことを約束し、引き続き男子としての教育を受けますが、12歳になると、自分を偽っている現状ゆえに、心が乱れます。ちょうどそこに登場するのが、かつてSilenceを造形した「自然」です。 『シランスの物語』においてはNature(「自然」)、Nurture(「教育」)、Reason(「理性」)が人物として登場しますが、Silenceの誕生時には、「自然」がいかにして彼女を造ったか、人間一般の造形に関することにも触れながら、長々と語られます(1805–1957行)。未使用のとっておきの型を使って、丹精込めて、この上なく美しく造り上げた女の子が男子として育てられ、自分の大切な作品をすぐに「教育」にねじ曲げられてしまった「自然」は、当初から心中穏やかではありません。その後、Silence本人の心が揺れ動いているところにやって来た「自然」は、誕生後初めてSilenceと対面し、彼女をひとしきり責めて、このように言います。
ここで主人公は、Silentiusでないならば自分は何者なのか?と自問します。「自然」の台詞をきっかけに、改めて自己の揺らぎが生じ、生まれつきの性別である女性としての人生を歩む選択肢が浮上してきます。父親も述べていた名詞の語尾にも言及しながら思いを巡らせるSilence。「自然」の言い分にも一理あります。やはり、本来の女性としての生活に戻るのが妥当な人生行路なのでしょうか。そこへ「教育」がやってきて、一体何をやっているのかと問われたSilenceは、以下のように答え、女性としての生活に戻る考えを明らかにします。
このようにSilenceは、一旦は「自然」に説得されます。やはり自分の育ちは不自然だ、もう今後は男性として装って武道に関わったりはせず、女性らしく、声をあげずに静かに生きていこう、と考えるのです。「自然」の言う通り、中世文学における女性は受動的で目立たない存在で、戦いではなく刺繍などをしているものです。Silenceもこのような生活を始めれば、それがいわば自然本性にふさわしい生き方なので、思い悩むこともなくなるのかもしれません。しかし、「自然」に対して、「教育」は怒りを爆発させます。
「教育」は、Silenceを”desnaturer”してしまったと言います。この動詞は、性質や本性を変える、というだけでなく、性質や本性に反して行動する、振る舞うという意味もあります。[13]まさに、男子としての教育がSilenceの女性としての自然本性を変え、それとは異なる言動をさせているわけです。物語の最後のほうまで、Silenceは男性として問題なく生活できているので、確かに「教育」の力も強大であると言わざるを得ません。上の引用の末尾で去れと言われた「自然」も、あっさりと引き下がってしまいます。さらに、双方の言い分を目の前で聞いたSilenceが改めて考える間もなく、どこからともなく「理性」が登場して、Silenceに直接話しかけます。
「理性」は、女性に戻ることで失うものをSilenceに思い起こさせます。女性として生きるのならば、これまでに受けた訓練や、騎士として所有できる馬などの物だけではなく、そもそも男性になった理由であるコーンウォール伯領の相続まで手放すことになります。これを聞いたSilenceの考えは、以下にはっきりと述べられます。
現在の自分の生き方と女性の習慣とを秤にかけたSilenceは、男性の人生の方がずっと良いと結論づけます。女性に戻れば地位も下がり、今まで受けていた栄誉も失うことになるからです。Silenceがどちらの性別で生きていくかは、最終的に「理性」による言葉を契機として決断されます。論理的に考えて、男性でいるほうが何かと得であるのが、当時の物語世界—おそらく実世界でも—の現実でした。女性になれば、これまでのように敬われることもなく、下位に甘んじて、自由に行動することもできず、手芸などに時間を費やしていくことになります。自発的な言動を自由にできる男性の生活を一度経験してしまったSilenceは、多少の迷いを抱えながらも、このままの生活を選択しました。 Silenceの自己認識がようやく安定し、男性としての成長に後悔なく生きていけるようになるのは、フランスで騎士叙任され、勇敢な騎士として活躍し始めた頃になってからです。活躍する中で、十分に男性として生活していけるという自信を得たのでしょう。Silenceは以前、12歳の頃に、女性として武器が扱えるかどうか心配していました。戦闘では身体的不利はあるでしょうから、それが克服できたこともあって、Silenceはようやく自分に満足するのです。 |
【6.マーリンにおける「自然」と「教育」の相剋】 | |
『シランスの物語』に登場する唯一のアーサー王伝説のキャラクターであるマーリンですが、Silenceの自己に関して問題となった「自然」と「教育」の相剋は、マーリンが登場する場面においてもみられます。 長い白髪の男[14]から、肉を焼いて煙を立てればマーリンは来る、と教えられたSilenceは、塩漬け肉を焼いてマーリンの注意を引くことに成功します。しかし、ここで「自然」と「教育」が登場して言い争い、マーリンが肉を食べるべきか否かという争点が生じるのです。肉に向かっていくマーリンを「教育」が止めようとします。
これに対して「自然」は怒り、言い争いは食事のことよりも、どういうわけかアダムとイブの話になり、原罪は「自然」と「教育」のどちらの責任であるかという論争に発展します。結果として「教育」が言い負かされ、マーリンは、肉が欲しいという自然本性に従って、Silenceの策略にはまったのでした。 作品を通して扱われる「自然」と「教育」の問題ですが、Silenceに関わる「自然」と「教育」の争いが、生き方やアイデンティティといった、主人公の根幹に関わる問題であったのに対し、マーリンの場合は「肉食か菜食か」という葛藤なのですから、何ともユーモラスなものです。森の中で長く生活していれば、植物を食べるのが自然であるというわけですが、マーリンは葛藤を感じながらも、肉を焼く香りには抗えず、森の茂みで傷だらけになりながら肉のところへ急ぐのです。食べ物のこととはいっても、「自然」が勝るこの場面は、最終的にはSilenceが女性に戻って「自然」が勝利を収めることを予示しているのかもしれません。[15]完璧に男性となったかに見えたSilenceも、「自然」による欲求に負けたマーリンのように、「自然」の造形に戻っていくのです。 |
【7.男装する女性主人公】 |
本作の大きな特徴の一つは、主人公が、男性として生きる女性であることです。そうした女性は、ガワー(John Gower)の『恋する男の告解(Confessio amantis)』に収められたイピスとイアンテの物語や、[16]ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)『黄金伝説(Legenda aurea)』における異性装の聖女伝など、他の中世の作品にも登場します。イピスの場合は、Silence同様、親の意向で性別が隠されます。反対に『黄金伝説』の異性装の聖女は、マリーナ以外は自主的に男装し、特に、テオドラ、マルガリタ、エウゲニアの三名は、女性の身体を自主的に覆い隠し、男性中心の世界に入って修道院長等男性の役割をこなします。概して女性が周辺的且つ受動的な存在である中世文学の中で、これらの登場人物たちは男性の装いのおかげで、男性の主人公たちと同じように、物語世界の中で能動的に行動することができます。Perretの指摘するように、[17]異性装は女性を解放し、男性に与えられた特権を享受できるようにしてくれるのです。Silenceもまた例外ではありません。男性貴族としての立場が、Silenceの主体的な言動を可能にしてくれますし、実際に、Silenceが物語中で成し遂げたことは全て、男性として行ったものでした。 |
【8.物語の結末と写本の文脈】 |
武勲の誉れ高き立派な騎士として活躍してきたSilenceも、物語の最終盤で性別が明らかになると、王妃を処刑したイングランド王の新しい妃になります。折しも、女性の相続が認められ、Silenceがコーンウォール伯領を継承できることになった矢先の出来事でした。結婚にあたり、Silenceがそれまで男性としての生活で被った、貴族の女性らしからぬ特徴―日焼けなど―は、「自然」の力で取り去られます。Silenceはとうとう、生まれつきの性別に戻り、イングランド王妃としての人生を歩んでいくことになります。 作品は二人が結婚したところで完結するため、Silenceのイングランド王妃としての生活を窺い知ることはできません。しかし、死刑に処された元の王妃は悪役であったので、作品中で素晴らしい騎士として活躍してきた徳高きSilenceは、この元の王妃と対比させる意味でも、おそらく、おとなしく受動的で従順な、そして品行方正な王妃として描かれていたことでしょう。 Silenceが男性として生活していた間は、自ら行動する自由があり、吟遊詩人時代には、そのパフォーマンスが高く評価されて、稼ぎもありました。皮肉なことに、本来の姿に戻ったことで、Silenceはこれまでの自発性、主体性、そして声を失うことになると考えられます。イングランド王自身、「女性の役割は黙っていることだ」[18]と述べており、Silenceは名前の表す通り、夫に黙って従う女性となったのではないでしょうか。結局のところ、Silenceは女性にとって自然とされる人生行路から逃れることはできなかったとも言えます。 但し、二人の結婚生活が円満なものであったかどうかは、読者/聴衆の想像に委ねられています。Silenceは、イングランド王の甥の子供ですから、王とは親子以上に年が離れていた可能性もあります。『シランスの物語』が収められている写本には、ファブリオ(中世フランス文学の一ジャンル。短い韻文の笑い話で、低俗な主題も少なくない)が多く入っていました。Allenも指摘するように、この背景では、「年配の夫と浮気する若妻」というファブリオには珍しくない主題が、Silenceのその後にも当てはまることになるのではないかと、当時の写本の読者は思ったかもしれません。[11] |
Notes |
^1.Ralph Hanna and Thorlac Turville-Petre, eds, The Wollaton Medieval Manuscripts: Texts, Owners and Readers (Woodbridge: York Medieval Press, 2010); Sarah Roche-Mahdi, ed. and trans., Silence: A Thirteenth-Century French Romance (East Lansing: Michigan State University Press, 1992); http://mss-cat.nottingham.ac.uk/CalmView/Record.aspx?src=CalmView.Catalog&id=WLC%2fLM%2f6 [accessed 3/3/2018].^2.Lewis Thorpe, ‘Le Roman de Silence, by Heldris de Cornuälle’, Nottingham Mediaeval Studies, 5 (Jan 1, 1961), 33–74; ‘Le Roman de Silence, by Heldris de Cornuälle (continued)’, Nottingham Mediaeval Studies, 6 (Jan 1, 1962), 18–69; (以下題名・所収同じ)7 (Jan 1, 1963), 34–52; 8 (Jan 1, 1964), 35–61; 10 (Jan 1, 1966), 25–69; ‘Le Roman de Silence, by Heldris de Cornuälle (concluded)’, Nottingham Mediaeval Studies, 11 (Jan 1, 1967), 19–56.^3.現代英語訳はSarah Roche-Mahdiの校訂版による。日本語訳は、原典と現代英語訳を参考に、筆者が作成した。原文校訂や現代英語訳に問題が認められると解釈される箇所に関しては、現代英語訳と日本語訳に齟齬が生じていることを予めお断りしておきたい。^4.ll. 397–402.^5.Silence: A Thirteenth-Century French Romance, p.326.^6. Sarah Roche-Mahdi, ‘A Reappraisal of the Role of Merlin in the Roman de Silence’, Arthuriana, 12:1 (Spring 2002), 6–21.^7. Cf. Lorraine Kochanske Stock, ‘The Importance of Being Gender “Stable”: Masculinity and Feminine Empowerment in Le Roman de Silence’, Arthuriana, 7:2 (Summer 1997), 7–34. Stockは、本作では国王の男らしさが揺るがされていると論じている。^8. Takeshi Matsumura, Dictionnaire du français médiéval (Paris: Les Belles Lettres, 2015), p. 3128. “s.m. et f.”はsubstantif masculin/féminin(男性/女性名詞)の略号である。^9. Dictionnaire du français médiévalによれば、この語が中世のフランス語のsilenceの語源である。^10. Erin F. Labbieは、フランス語の名前は主人公の安定した内なる自己や内面を、ラテン語の名前は主人公の外面を表して、他の人が男性として、あるいは女性としてSilenceを範疇に分けることを可能にすると論じている。Erin F. Labbie, ‘The Specular Image of the Gender-Neutral Name: Naming Silence in Le Roman de Silence’, Arthuriana, 7:2 (1997), 63–77.^11. ll. 2042–47.^12. Dictionnaire du français médiévalに拠る。^13. Algirdas Julien Greimas, Dictionnaire de l’ancien français, 3rd edn (Paris: Larousse/SEJER, 2004), p. 167.^14. 先述のように、マーリン本人であるという説もある。‘A Reappraisal of the Role of Merlin in the Roman de Silence’参照。^15. 作者も「自然」が勝るという考えを展開している。(l. 2295 ff.)^16. 元来オウィディウスの『変身物語』に収録されている挿話である。^17. Michèle Perret, ‘Travesties et Transsexuelles: Yde, Silence, Grisandole, Blanchandine’, Romance Notes, 25:3 (1985), 328–40.^18. l. 6398.^19. ファブリオの多い写本の文脈の解釈については以下の論文参照。Peter L. Allen, ‘The Ambiguity of Silence: Gender, Writing, and Le Roman de Silence’, in Sign, Sentence, Discourse: Language in Medieval Thought and Literature, ed. by Julian N. Wasserman and Lois Roney (Syracuse, NY: Syracuse University Press, 1989), pp. 98–112. |
記事作成日:2020年6月16日
最終更新日:2020年9月13日
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