The International Arthurian Society - 国際アーサー王学会日本支部

サラセンの騎士パロミデス:キリスト教世界における他者

趙 泰昊(明治大学専任講師)

【はじめに】
サー・トマス・マロリー(Sir Thomas Malory)によって書かれた『アーサー王の死 (Le Morte Darthur 1485)』に登場する騎士パロミデス(Palomydes)は、最良の騎士の一人として名高いトリストラム(トリスタン:Tristram)のライバルとして、物語において際立った存在感を放っています。パロミデスはトリストラムの恋人であるイソード(イズー、イズールト:Isode)への報われない恋心のためにトリストラムと敵対することとなりますが、同時にトリストラムの騎士としての優れた能力を認め、しばしば彼に対する友情を口にしています。[1]ライバルであり友でもあるトリストラムへの相反する感情と葛藤はパロミデスを特徴づける重要な要素であり、こうした彼の態度に端的に示されるように、パロミデスは二つの矛盾する性質を持った「両義的な」人物として繰り返し描かれています。

 こうした彼の性格の基となり、彼を物語に登場するその他の騎士と明確に区別する最大の特徴は彼の信仰心です。キリスト教徒の騎士が中心となる世界において、異教徒である「サラセン(この用語については後のセクションで詳述)」の騎士として登場するパロミデスは、その他のアーサー王宮廷の騎士とは異なる性質を持つ人物として描かれることになります。本稿ではマロリーの書く『アーサー王の死』を中心に、アーサー王世界における優れた騎士として賞賛を浴びながらも、常にその他の騎士たちと区別されるサラセンの騎士パロミデスの特異な性質 を解説します。アーサー王世界におけるパロミデスの独特な性質はこれまで多くの読者の関心を惹きつけ、物語中で彼が果たす役割について、様々な議論がなされてきました。 本稿では、『アーサー王の死』の物語に沿いつつ、パロミデスに関する引用を示しながら、彼の役割について考えられる読み方や考察の一例を示します。また、本稿の末尾では、実際に示した読み方も含め、様々な視点で分析する可能性を広げる先行研究を紹介しながら、彼の重要性について確認していきます。これまで多くの読者を魅了したパロミデスの特徴とその魅力を、本稿を通して探ってみましょう。

 

【由来】
中世において高い人気を博したトリスタンの伝説はさまざまな詩人によって謳われてきましたが、トリスタンの恋のライバルであるサラセンの騎士の姿が初めて登場するのは13世紀にフランス語で書かれた『散文トリスタン(Tristan en Prose)』においてとされています。この物語の中でパロミデス(Palamedes)はすでにイソード(Iseut)に心を捧げた騎士として登場し、のちの物語に引き継がれる性格が与えられています。彼の物語はその後、同じくフランス語で書かれた『パラメデの物語(Roman de Palaméde)』において、彼の家系や出自についての説明とともに詳細に描かれており、ここでパロミデスは優れたサラセンである父とアイルランド人である母の間に生まれた と説明されています。この物語を含む中世キリスト教世界で作られた騎士物語の多くが、キリスト教徒の騎士を称賛するように描かれていることを踏まえれば、パロミデスの出自を部分的にキリスト教世界に設定することには特定の目的があったことがわかります。すなわち、彼の出自を部分的にヨーロッパ世界に据えることで、異教徒でありながら優れた騎士であることに理由を与えようとしていると考えることができるのです。一方で、興味深いことに、15世紀のイングランドで『散文トリスタン』を主な種本にパロミデスの活躍を語り直したマロリーは彼の出自についてのこうした説明を省いています。その結果、パロミデスの持つサラセンとしての特異性、すなわち「外部から来た他者」としての性質が強調されることになります。キリスト教徒と同等の存在でありながら、常に「他者」として留まり続ける彼の相反する性質を理解するためには、中世の騎士物語に登場するサラセンという異教徒の描かれ方について確認する必要があるでしょう。

 

【中世の騎士道ロマンスにおける異教徒サラセン】
中英語で書かれた騎士道ロマンスの多くにおいて「サラセン」という語はキリスト教徒に敵対する異教徒を表す呼称であり、多くの場合、中世キリスト教世界の脅威であった東方に住むイスラム教徒(ムスリム)の歪曲された姿として理解されます。こうした中英語ロマンスにおけるサラセンの表象伝統は古仏語で書かれた武勲詩(Chansons de geste)などの物語から引き継いでいると考えられます。これらの物語に登場するサラセンはいくつかのカテゴリーに分類することができますが、その役割から「怪物的な特徴を持ち、キリスト教徒にとっての他者として排除されるサラセン」と、「のちにキリスト教徒へと改宗し、同化されることが期待されるサラセン」に大別することができます。このセクションにおいて説明するように、一見すると相反するようなこの二つの性質の共存こそが、中世文学におけるサラセンの性質を特徴づけていると言えます。

 中世の物語においてサラセンは通常、偶像の崇拝や複数の神々への信仰など、キリスト教徒とは完全に異なる性質をもった「他者」として物語に登場します。黒い肌、巨大な体躯、動物的な性質、異質な風習など、東方やイベリア半島に実際に住む現実のムスリムにはない特徴を与えられた異教徒の姿は、その奇妙な性質や風貌によって、物語の主人公であるキリスト教徒の英雄や騎士のあるべき姿を際立たせることになります。例えば中世イングランドを舞台にした物語『ウォリックのガイ(The Romance of Guy of Warwick)』の中で主人公であるキリスト教徒の騎士ガイは、黒い肌をしたサラセンの巨人を倒すことでキリスト教世界を守護し、騎士としての自らの価値を示しています。また、物語の中で複数の神々を信仰する多神教の民として描かれるサラセンですが、戦闘に敗北した際には信仰していた神々の非力を詰り、怒りに駆られてその像を破壊します。このような異教徒 の姿は、神への揺らぐことのない信仰心によって支えられた キリスト教徒の騎士の姿を理想化し、その美徳を際立たせる装置として機能していると言えるのです。

 怪物的なサラセンがキリスト教徒の理想化された姿を明確に示す一方で、中世の物語にはキリスト教徒となんら変わるところのない美徳を備えたサラセンの貴人が登場することがあります。例えば古仏語による最古の武勲詩『ロランの歌(La Chanson de Roland)』では、「キリスト教徒でさえあったならば」と語られるバラグエの将軍のように、信仰を除いては非の打ちどころのないサラセンが紹介されています。こうした有徳の異教徒の姿もまたサラセンの表象伝統の一角をなしています。中英語ロマンスにおいても同じくシャルルマーニュの軍事遠征を題材とした『オテュエル(Otuel)』や『フェルンブラス(Ferumbras)』など、優れたサラセンの騎士の改宗を主題とする複数の物語が作られており、その人気の高さがうかがえます。それぞれの物語の主人公であるサラセンの騎士は、物語の冒頭からキリスト教徒の優れた騎士に比肩する美徳を備えた人物として描かれ、彼らのキリスト教への改宗はキリスト教徒の一団にとって望ましいものとして語られます。こうした優れた異教徒の同化は、キリストの教えを広めるという布教の理念を映し出すものであり、新たにキリスト教世界へと加わることが期待される個人を描き出そうとする試みとして理解することができます。

 しかし、興味深いことに、こうしたサラセンの洗礼によるキリスト教世界への同化は一筋縄ではいかない場合もあります。例えば中英語ロマンス『オテュエルとロラン(Otuel and Roland c. 1475-1500)』の中で神の奇跡によってキリスト教徒となることを決意し洗礼を受けたサラセンの騎士オテュエルは、彼の元の仲間であった他のサラセンたちを倒すまでは完全にキリスト教世界へ受け入れられることはありません。新たに洗礼を受けた信徒は、行動によって自らの信仰を証明することが期待されているのです。こうしたキリスト教世界への同化を目指すサラセンの物語は、他者が新たに共同体に同化することがいかに困難なものとして想像されていたかを示しています。[2]この点において、こうしたサラセンの改宗の物語は、一見すると正反対に思われる怪物的なサラセンと同様の機能を果たしていると考えることができます。つまり、怪物的なサラセンがその異質な性質や風貌との対比によってキリスト教徒のあるべき姿を示したのと同様に、優れた異教徒の姿もまた、キリスト教徒としてふさわしい行動を取り続けることの重要性を伝えるものとして機能しているのです。

 

【中英語アーサー王伝説におけるサラセンの騎士】
このように中世文学に登場するサラセンの性質は大きく二つのカテゴリーに区分することができますが、これらのサラセンの姿は、イスラム教の到来以前の世界が舞台であるはずのアーサー王の物語においても描かれています。例えば『ウォリックのガイ』を含む多くの中英語ロマンスを収録したオーヒンレック写本(1330-40)の中に残るアーサー王ロマンス『アーサーとマーリン(Of Arthour and of Merlin)』は、若き日のアーサーが対峙するサクソン人やデーン人を「サラセン」として描いた最初の英語作品とされています。アーサーはブリテン島に侵攻して来たアングロ・サクソンに抵抗して戦った英雄とされていますが、この物語の中ではそれらの敵が「サラセン」として形容されているのです。中世英語の語義や用例を収録した辞典Middle English Dictionaryではこの語がブリテン島に侵攻して来たサクソン人やデーン人として用いられる例が紹介されており、この語が異教徒(非キリスト教徒)を広く表す語彙としても使われていたことがわかります。[3]一方で、『アーサーとマーリン』に登場するサラセンはイスラム教を思わせる神の名を口にしており、それによってアーサーの戦闘を、中世後期に長く続いた現実の十字軍遠征と重ね合わせるように表現しています。つまり、アーサーが戦う敵を怪物的で邪悪なサラセンに変更することで、現実の十字軍よりも前の時代に生きたブリテン島(あるいは中世イングランド)の英雄であるアーサーを、異教徒と戦うキリスト教徒の模範となるべき姿として特徴づけているのです。こうした伝統は後世の作品にも引き継がれており、例えば15世紀にマロリーの書いた『アーサー王の死』でも、アーサーに敵対する皇帝ルーシャス率いるローマ軍はサラセンの軍勢と横並びに描き出されています。

 また、アーサー王伝説の中では、こうしたキリスト教徒の脅威であるサラセンに加えて、キリスト教へと改宗する優れた騎士の姿も見ることができます。実際に、マロリーの描く『アーサー王の死』の中でも、キリスト教徒の騎士との一騎打ちを経て改宗するサラセンの騎士が登場します。アーサーによるローマ進軍の道中、冒険を求めていたガウェインの前に現れたサラセンの騎士プリアムス(英 Pryamus)は、ガウェインと激しい一騎打ちを繰り広げます。激しい戦闘の末に、キリスト教徒としての受け入れを求めるプリアムスに応じ、 ガウェインは彼をアーサーのもとへと連れて行きます。興味深いことに、この道中でプリアムスはガウェインとともにサラセンの軍勢を相手とする戦いに加わります。プリアムスが洗礼に至るまでの経緯は、サラセンの改宗者がキリスト教徒を守るためにかつての仲間であるサラセンと戦うことで、新たなキリスト教徒としての自分自身の信仰を証明する一つの例 として理解することができます。シャルルマーニュの物語に登場するオテュエルなどのサラセンの改宗者がかつての仲間を相手に戦い自らの信仰を証明したように、『アーサー王の死』もまた、改宗に関わる行動の必要性を描き出しているようでもあります。

 マロリーの描くアーサー王の物語には、中世ロマンスの伝統に連なるこうした性質の異なるサラセンのキャラクターが登場しています。本稿の主役であるサラセンの騎士パロミデスもまた、こうした文学作品の伝統にのっとって成型された人物と考えることができますが、その一方で、彼はこれまでに見た例とは異なる性質を備えた人物でもあります。続くセクションでは『アーサー王の死』におけるこのサラセンの騎士の描写を確認し、相反する性質を内包した彼の両義的な特性を明らかにします。

 

【「トリストラム卿の物語」におけるサラセンの騎士パロミデス】
冒頭で述べたように、相反する性質を兼ね備えた人物として描かれるパロミデスですが、彼の活躍は『アーサー王の死』全体のおよそ三分の一を占める「トリストラム卿の物語(“The Book of Sir Trystram de Lyones”)」において語られています。リオネスの騎士トリストラムとイソードの道ならぬ恋を主軸とするこの物語において、トリストラムのライバルであるパロミデスは、ラーンスロット、トリストラム、ラモラックの三人の騎士に次ぐ世界で最も優れた騎士のひとりとしてその名が知られています。キリスト教徒としての信仰心が重要な役割を果たすアーサー王の物語において、非キリスト教徒であるにもかかわらず優れた資質を示すパロミデスは、有徳の異教徒の系譜に連なる存在であると言えます。一方で、物語においては繰り返し、パロミデスが常に最良の騎士であるトリストラムやラーンスロットには敵わないことが示されています。自身も優れた騎士でありながら、より上位の騎士の引き立て役となるパロミデスは、この意味でも相反する二つの性質を備えた両義的な存在であることがわかります。

 物語中では彼のこうした性質が何度も描かれています。例えば、ロネゼップ(Lonezep)で開催された大規模な馬上槍試合においてトリストラムと共に参戦したパロミデスは、アーサー王率いるオークニーの騎士たちを相手にめざましい働きを見せています。ここでトリストラムに比肩する戦功を挙げたパロミデスは、戦いをイソードが見守っていることに気付くと、さらに発奮し、周囲を驚かせます。


And as hit happened, Sir Palomydes loked up toward [La Belle Isode] where she lay in the wyndow, and Sir Palomydes aspyed how she lawghed. And therewyth he toke suche a rejoysynge that he smote downe, what wyth his speare and wyth hys swerde, all that ever he mette, for thorow the syght of her he was so enamered in her love that he semed at that tyme that and bothe Sir Trystram and Sir Launcelot had bene bothe ayenste hym they sholde have wonne no worshyp of hym.(580.33-581.5)[4]

たまたまパロミデス卿が王妃を見上げると、王妃は窓のそばにいて楽しそうに笑っていた。するとパロミデス卿はたいへんに嬉しくなり、向かってくる敵を槍で剣でなぎ倒した。イソードの姿を見たパロミデス卿は、彼女恋しさで夢中になったあまり、たとえラーンスロット卿とトリストラム卿の二人が一緒にかかって来たとしても、彼に勝つことはできないほどだった。(III. 237)


この活躍によってその日の賞は彼に送られることになります。思いを寄せる貴婦人の前で武勲を立てることは中世の騎士物語に登場する騎士の特徴ですが、キリスト教徒が支配的なトーナメントにおいてパロミデスも同様に優れた騎士として自らの価値を示しているのです。

 しかし、こうした彼の名声は常により優れた騎士との対比によって霞んでしまいます。騎士としての能力や、自らが愛する女性への揺らぐことのない献身を示すパロミデスですが、彼が武勇や美徳においてラーンスロットや恋敵であるトリストラムに勝ることはありません。続く日の試合において同じように奮闘するパロミデスでしたが、彼の活躍に対する賞賛はそれを上回るトリストラムの働きによってかき消されてしまいます。


Than Sir Trystram rode into the thyckyst of the prees, and than he ded so mervaylously well and ded so grete dedis of armys that all men seyde that Sir Trystram ded dowble so muche dedys of armys as ded Sir Palomydes aforehande. And than the noyse wente clene frome Sir Palomydes, and all the people cryed uppon Sir Trystram and seyde.... (589.27-31)

そしてトリストラム卿は戦いのただなかに入っていき、素晴らしい活躍をし、戦いぶりをみせたので、人々は口々にトリストラム卿はパロミデス卿の倍の働きをしている、と言うのだった。パロミデス卿を褒めそやす声は消えて、人々はトリストラム卿を褒めてこう言った。(III. 251)


一時的に彼の活躍が脚光を浴びることがあったとしても、騎士としての武勇において、あるいは愛する貴婦人との恋の成就において、パロミデスは最良の騎士の一人であるトリストラムに遅れをとってしまうのです。

 更にこの点を強調するように、物語中では自らの立場を思い苦しむパロミデスの嘆きがしばしば描き出されています。


But whan Sir Palomydes harde the noyse and the cry was turned frome hym, he rode oute on the tone syde and behylde Sir Trystram. And whan he saw hym do so mervaylously well he wepte passyngly sore for dispyte, for he wyst well than he sholde wyn no worshyp that day; for well knew Sir Palomydes, whan Sir Trystram wolde put forthe his strengthe and his manhode, that he sholde gete but lytyll worshyp that day. (590.12-18)

さて賞賛の喚声や叫び声が自分から離れていくのがわかったパロミデス卿は、試合場の片隅に行き、トリストラム卿を眺めていた。トリストラム卿が素晴らしい働きをするのを見て、その日自分には名誉は得られないだろうとわかり、パロミデス卿は激しく泣いたのである。もしトリストラム卿が力と勇気を充分に発揮したなら、その日の名誉が自分にくることはほとんどないとパロミデス卿にはわかっていたからである。(III. 252)


こうした嘆きは彼を特徴づける要素の一つであり、例えば別の場面において、泉のほとりにひとり佇むパロミデスは次のような嘆きを口にしています。


“Alas!” seyde Sir Palomydes, “I may never wyn worship where Sir Trystram ys, for ever where he ys and I be, there gete I no worshyp. And yf he be away, for the moste party I have the gre, onles that Sir Launcelot be there, othir ellis Sir Lamerok.” (416.25-28)

「ああ、なんと悲しいことか」とパロミデス卿は言った。「わたしはトリストラム卿がいるかぎり、決して名誉が得られないのです。なぜって、いつだって彼がいてわたしがいるところでは、名誉を得たためしがないのです。トリストラム卿がいなければ、たいがいわたしが勝利を得るでしょう。ラーンスロット卿とラモラック卿がいれば別ですが。」(II. 344)


ここでは自身も優れた騎士でありながら、格上の騎士であるトリストラムに敵わないことを自覚し、劣等感に苦しむパロミデスの様子が描き出されています。異教徒の騎士である彼は武勇においても恋愛においても、「トリストラムの引き立て役」として位置付けられているのです。 [5]

 一方で、彼が心を捧げる貴婦人への振る舞いは、ライバルであるキリスト教徒の騎士よりも理想的なものとして描き出されることがあります。[6]事実、彼より優れたトリストラムが自らの仕える貴婦人以外の女性と関係を持つことがあった一方で、パロミデスはイソードに対する一貫した忠誠を貫いています。そのことが端的に示されるのは、イソードへの恋心をトリストラムによって「裏切り」として咎められたパロミデスが、愛のあるべき姿を自らの恋敵に説く場面です。


“Sir, I have done to you no treson,” seyde Sir Palomydes, “for love is fre for all men, and thoughe I have loved your lady, she ys my lady as well as youres. Howbehyt, I have wronge if ony wronge be, for ye rejoyse her and have youre desyre of her; and so had I nevir, nor never am lyke to have, and yet shall I love her to the uttermuste dayes of my lyff as well as ye.” (616.4-9)

「わたしはあなたを裏切ったことなどありません」とパロミデス卿は言った。「というのは、愛は万人にとって自由です。それでわたしはあなたの婦人を愛してはきましたが、その方はあなたの婦人であると同時にわたしの愛する婦人でもあったのです。だが何か悪いことがあるのだとしたら、わたしのほうにあるのです。というのはあなたはあの方を喜ばせ、あの方から楽しみを得ています。だけどわたしは一度もそんなことはありませんでしたし、これからもないでしょう。それでもなお、わたしはあなたと同じく生涯あの方を愛し続けるでしょう。」(III. 294)


決してイソードから愛を返されることがなかったというパロミデスの境遇を考慮すれば、彼が述べる愛のあり方は見返りを前提としないものであり、恋愛における一つの理想形がここで描き出されているのです。このように献身的な恋心や葛藤といった心理描写は、このサラセンの騎士を魅力的なものとする要素であると同時に、彼が追い求める理想像と周囲の騎士の実践との 違いを示すものであると言えます。

 自身も優れた騎士でありながら、より優れた騎士との対比による劣等感や葛藤に苦しむ存在として複雑な心理描写を与えられているパロミデスですが、こうした彼の人物設定の根底にあり、その性格をより複雑にしているのは、キリスト教に対する彼の信仰心です。彼は物語を通して何度も「サラセン」の騎士として言及されており、その非キリスト教徒としての身分は『アーサー王の死』における彼の立ち位置を独特なものにしています。しかし、中世ヨーロッパの騎士道ロマンスにおいてサラセンと呼ばれる異教徒たちがキリスト教徒の信仰を軽蔑し忌み嫌う一方で、同じくサラセンの騎士であるパロミデスは決してそのような様子を示すことはありません。それどころか、彼は洗礼を受けていないサラセンでありながら、内心は「キリストを信仰する」人物として描かれています。異教徒でありながら多くのキリスト教徒の騎士に勝る美徳を備え、一方でサラセンであるためにキリスト教徒の最良の騎士には敵わないという彼の両義的な性質は、マロリーが描くパロミデスの重要性について考えるためのヒントを与えてくれるのです。

 

【サラセンとしての身分とキリストへの信仰】
サラセンでありながら「世界で最も優れた四人の騎士」の一人として名を連ねるパロミデスは、先に見たプリアムスの例と異なり、洗礼を受ける前からキリストへの信仰を口にしています。一方で、彼は自らがキリスト教徒として相応しい人物であると証明するため「イエス・キリストのために七回の誠実な戦い (“seven trewe bataylis for Jesus sake”)」を成し遂げるまでは洗礼を受けることはないと誓っています。


“Sir,” seyde Sir Palomydes, “I woll that ye all knowe that into this londe I cam to be crystyned, and in my harte I am crystynde, and crystynde woll I be. But I have made suche a vowe that I may nat be crystynde tyll I have done seven trewe bataylis for Jesus sake, and than woll I be crystynde. And I truste that God woll take myne entente, for I meane truly.” (527.11-16)

「騎士どの」とパロミデス卿はこう言った。「わたしはキリスト教徒になるためにこの国に来たのだということを、あなた方に申し上げておきましょう。そして心のなかではすでにキリスト教徒ですし、またキリスト教徒になるつもりでおります。ですがわたしはイエス・キリストのために七回の誠実な戦いをなし終えるまでは、キリスト教徒にはなりません。それをなし終えたらキリスト教徒になる、という誓いを立てています。また神はわたしのこの意向をお許しくださるだろうと思っております。というのは、わたしは心からそう思っているからです。」(III. 151)


中世の物語に描かれるサラセンを特徴づける決定的な性質がキリスト教への敵対心であることを思い出せば、この発言は彼を他のサラセンと明確に区別するものであることがわかります。洗礼を受ける前からキリストを信仰していたパロミデスは、キリスト教徒とも、これまでにみたサラセンの騎士とも異なる存在として描かれているのです。

 しかし、洗礼を受ける前にキリスト教に相応しい者として自らの価値を証明しようとする試みのため、パロミデスは自らの魂の救済をめぐって重大な問題を抱えることになります。物語において彼の兄弟であるサフィア卿(Sir Saphir)やセグワリデス卿(Sir Segwarydes)が既に洗礼を受けている一方で、「七つの誠実な戦い」 を完遂するまで洗礼を受けないという彼の誓いは、結果として彼が真のキリスト教徒になる機会を遠ざけることになります。[7]こうした彼の信仰をめぐる問題を映し出すように、パロミデスはあくまでもサラセンであるという事実が彼の思い人であるイソードによって強調されてしまう場面があります。それは、パロミデスと自身の恋人であるトリストラムの決闘の様子を見守るイソードが、トリストラムに向かって、パロミデスとの戦いをやめるように懇願する場面です。ここでイソードは、パロミデスが「異教徒のまま」命を落とすことを恐れ、この戦いを止めるように呼びかけています。


“And yett hit were grete pyté that I sholde se Sir Palomydes slayne – for well I know by that the ende be done, Sir Palomydes is but a dede man – bycause that he is nat crystened, and I wolde be loth that he sholde dye a Sarezen.” (339. 19-22)

「でもパロミデス卿が殺されるのは見たくない。パロミデス卿はキリスト教徒ではなくサラセン人だから、最後の時がくれば、ただの騎士の死体になるだけだわ。異教徒のままで死なせるのは、あまりに忍びない。」(II. 209)


イソードによるこの発言は、洗礼を受けることなく命を落とした異教徒の魂は地獄に落ちるというキリスト教の考え に基づいています。この考えが明確に示される例として、パロミデスが別のサラセンの騎士コーサブリンと決闘する場面では、首をはねられたコーサブリンの体から異臭が漂う様子が描かれます。


And therewithall cam a stynke of his body, whan the soule departed, that there myght nobody abyde the savoure. So was the corpus had away and buryed in a wood, bycause he was a paynym. (526.34-527.2)

魂が離れるとき、コーサブリン卿の体からは、誰も我慢できないほどの悪臭が漂ってきた。そこで死体は運び去られ森に埋められた、というのは彼は異教徒だったのである。(III. 150)


ここではコーサブリンの死後に生じた変化が、彼のサラセンの身分によるものであることが暗示されています。こうした場面とあわせて考えれば、イソードによる発言もまた、キリスト教への信心を口にするパロミデスの非キリスト教徒としての性質を強調するものとなります。キリスト教が支配的なアーサー王の世界において、サラセンでありながらその信仰心を示し、優れた活躍を見せるパロミデスですが、サラセンである彼自身の他者性は常に周囲によって強調されてしまうのです。

 

【パロミデスの洗礼と「吠える獣」の冒険】
こうしたパロミデスの信仰と宗教上のアイデンティティを巡るジレンマが解消されるのは、彼が冒険の果てに洗礼を受けることを決意する場面においてです。「七つの戦い」の成就を目指していたパロミデスは「トリストラム卿の物語」の結末において再びトリストラムと対峙し、戦いの果てに洗礼を受けることを決意します。


“wherefore I requyre you my lorde, forgyff me all that I have offended unto you. And thys same day have me to the nexte churche and fyrste lat me be clene conffessed, and aftir that se youreselff that I be truly baptysed”. (663.19-22)

「ですから、これまであなたに対して犯してきた無礼をお許しください。そして今日、ここから一番近い教会にわたしを連れて行き、何もかも告解させてください。そしてその後でわたしが洗礼を受けられるように、あなたにしてほしいのです。」(IV. 85)


彼のこの言葉を聞いたトリストラムは戦いを止め、近くの教会へとパロミデスを連れて行きます。


Than the suffrygan let fylle a grete vessell wyth watyr, and whan he had halowed hyt he than conffessed clene Sir Palomydes. And Syr Trystram and Sir Galleron were hys too godfadyrs.
And than sone afftyr they departed and rode towarde Camelot, where that Kynge Arthure and Quene Gwenyvir was, and the moste party of all the Knyghtes of the Rounde Table were there also. And so the kynge and all the courte were ryght glad that Sir Palomydes was crystynde. (663.31-664.3)

すると副司教は大きな器に水を満たし神に捧げ神聖なものにしてから、パロミデス卿の懺悔をすっかり聞いてくれた。そしてトリストラム卿とガレロン卿とが彼の教父になったのであった。
   それからすぐに彼らは出立すると、アーサー王とグィネヴィア王妃とほとんどすべての円卓の騎士がいるキャメロットへと馬を進めた。王も宮廷じゅうの者も、パロミデス卿が洗礼を受けたことをたいへん喜んだ。(IV. 86)


ここでパロミデスはキリスト教徒としての正式な身分を得ることとなり、アーサー王の宮廷は歓喜して彼を受け入れています。物語中で多くのキリスト教徒によって洗礼を受けることを望まれていたパロミデスは、この場面でついに完全なキリスト教徒としての身分を手にするのです。

 先のセクションにおいて、新たに改宗したサラセンの同化には困難が伴うものであったということはすでに述べましたが、新たにキリスト教徒となったパロミデスのその後はどのように描かれているのでしょうか。興味深いことに『アーサー王の死』において、キリスト教徒となったパロミデスは、他のキリスト教徒たちと行動を共にせず、異なる冒険へと旅立っていきます。


And at that same feste in cam Sir Galahad that was son unto Sir Launcelot du Lake, and sate in the Syge Perelous. And so therewythall they departed and dysceyvirde, all the Knyghtys of the Rounde Table. And than Sir Trystram returned unto Joyous Garde, and Sir Palomydes folowed aftir the Questynge Beste. (664.4-8)

そうしてこの祝宴には湖のラーンスロット卿の息子のガラハッド卿が来て、「危難の席」に座った。こうしてからすぐに円卓の騎士たちはみな出発してしまい、別々になってしまうのである。それでトリストラム卿は「喜びの城」に帰り、パロミデス卿は吠える怪獣の後を追うのであった。(IV. 86)


ここで明確に示されているように、「トリストラム卿の物語」に続く「聖杯の探求(“The Sankgreal”)」の中でその他の騎士たちが「聖杯の探求」に従事する一方、洗礼後のパロミデスは「吠える獣 (“the Questynge Beste”)」と呼ばれる不思議な獣を追い求める冒険に従事することになります。古仏語版のように、洗礼を受けた後に円卓の騎士たちの手にかかり命を落とすことはないものの、サラセンの身分を捨て去ったはずのパロミデスは依然として他のキリスト教徒とは異なる振る舞いを示しています。 信仰を証明するための「七回の誠実な戦い」を自らに課すことで洗礼を受ける機会を遠ざけていたのと同様に、彼が目標とする「獣」を追う冒険のために、パロミデスは物語においてキリスト教徒の一団に加わる機会を手放しています。サラセンであるために他のキリスト教徒と区別されていたパロミデスは、キリスト教徒となった後もなお、他のキリスト教徒とは異なる曖昧な存在として描かれているのです。

 

【先行研究によるパロミデスの分析】
これまで見てきたように、パロミデスの両義的な性質は、『アーサー王の死』における重要なテーマである「理想の愛とは」、「優れた騎士とは」、「真のキリスト教徒とは」といった問題を考えるためのきっかけを与えるものであると言えます。事実、これまで多くの研究者が彼の重要性について様々な議論を展開してきました。本稿を締めくくるに先立ちこのセクションでは、これまでに扱ってきたトピックとも関連の深い、いくつかの先行研究を紹介していきます。 [8]

 1990年に『アーサー王の死』の第三版としてP. J. C. Fieldによって改訂されたThe Works of Sir Thomas Maloryの出版以降、マロリー研究がさらに過熱する中で、パロミデスを扱った様々な研究も発表されています。例えば、1996年にはElizabeth Archibald と A. S. G. Edwardsが編集したマロリー研究の必携書であるA Companion to Maloryが出版されていますが、本書の中で“The Book of Sir Tristram de Lyones”の章を担当したHelen Cooperはパロミデスの役割を「叫ぶ獣を追う者」、「キリスト教を信じる異教徒」、「報われることのない恋人」の3つに分類しながら、物語におけるその働きを紹介しました。また、Alan Lupackによって2005年に出版されたThe Oxford Guide to Arthurian Literature and Legendの中で、「トリストラムの物語」を扱った章では、中世から現代までに書かれたパロミデスの登場する様々な文学作品が紹介されており、時代を超えて関心を惹きつけてきたパロミデスの魅力が示唆されています。他にも、中世ヨーロッパ文学研究におけるサラセン・イスラーム表象への関心の高まりを反映するように、パロミデスの描写はサラセン表象研究においても注目を集めます。例えばMichael FrassettoとDavid R. Blanksによって編集されたWestern Views of Islam in Medieval and Early Modern Europeの中では、Nina Dulin-Malloryが13世紀の『散文トリスタン』とマロリーの『アーサー王の死』に登場するパロミデスについての分析を行っています。Dulin-Malloryはこの論文で、マロリーの描くパロミデスが同時代の文学作品に登場するサラセンの中で「最も複雑で興味深い」人物であると評価しています。

 本稿を通して辿ってきたように、キリストを信じながらも洗礼を受けないパロミデスの宗教的アイデンティティや、報われない恋に従事する騎士としての立場は多くの研究者の関心を引き、マロリーの物語に登場するパロミデスの表象については様々な視点から分析が行われました。その中でもBonnie Wheelerは、アーサー王世界の外部から訪れた余所者であり、報われない恋人として登場するパロミデスの嘆きと苦しみに注目しており、トリストラムを含む優れた騎士たちの引き立て役として、パロミデスの性質を分析しています。他にも、パロミデスの嘆きに注目した研究としてはSue Ellen Holbrookの研究をあげることができます。「トリストラムの物語」の中で繰り返し挫折を味わい、嘆きの言葉を口にするパロミデスの描写に注目したHolbrookは、パロミデスの嘆きを描いたいくつかの場面がアーサー王世界における理想を映し出していることを指摘しています。

 また、『アーサー王の死』におけるパロミデスの役割を強調した研究としては、Christian Pyleの論考が挙げられます。Pyleは「トリストラムの物語」を通して繰り返される「不和と和解(‘discord-unity-discord’)」のパターンにおいて、他者であるパロミデスが象徴的に果たす役割に注目しています。こうした分析は、「トリストラムの物語」だけでなく、円卓の騎士の運命を象徴する存在として、パロミデスの役割を再評価することになりました。

 「最も複雑で興味深い」サラセンであるパロミデスの持つ様々な要素が多くの分析を可能にする中、今日まで多くの研究者の関心を惹きつけたのは彼が「人種」や「信仰」において異なる「他者」であるサラセンの騎士であるという点でしょう。この点をめぐっては、エドワード・サイードによる『オリエンタリズム』以降、大きな発展を遂げた「ポストコロニアリズム」の視点を取り入れた研究が行われています。「ポストコロニアリズム」は帝国主義や植民主義の影響を再検討しようとする試みの中で、征服と抵抗の中で生じるアイデンティティの揺らぎを一つの重大な問題とします。この論点をいち早くパロミデス研究に取り入れたのはDorsey Armstrongによる“Postcolonial Palomides: Malory’s Saracen Knight and the Unmaking Arthurian Community”です。ここでArmstrongは円卓への同化を望みながらも完全に同化されることのないパロミデスのサラセンとしての他者性を強調しています。パロミデスはこうした性格によって、アーサー王世界における統一や団結の幻想を揺るがすことになるのです。他にも、同年である2006年に刊行された研究誌Arthuriana において中世ヨーロッパの物語におけるサラセンについての特集が組まれ、こうした視点からいくつか重要な研究が展開されました。

 彼の持つサラセンとしての「他者性」に注目した研究はその後も多く生み出されます。1983年から出版が続くArthurian Literature という論文集において、28号(2011年)の特集は“Blood, Sex, Malory”と題されています。マロリー研究における様々なテーマの中でも特に「血」に注目したこの号ですが、特筆すべきはCaitlyn Schwartzの研究でしょう。Schwartzはここで“Blood, Faith and Saracens in ‘The Book of Sir Tristram’”というタイトルで、パロミデスの生まれ持ったサラセンとしての性質が、決して克服されることはないと主張しています。ここでSchwartzは、サラセンの血筋によってパロミデスが物語の周縁に追いやられており、貴婦人の愛を求める冒険において成功を収めることがないことを強調しています。キリストを信じるという彼の信仰は決して彼の出自による違いを消し去ることはないのです。さらに同じ論文集内で、Maria Sachiko Cecireは“Barriers Unbroken: Sir Palomydes the Saracen in the ‘The Book of Sir Tristram’” を発表しています。Cecireは物語において描かれる「血」と「性」に注目し、人種を示す血筋、性的な含意を持つ血、戦いにおいて流される血、信仰を象徴するキリストの流した血、と「血」が複層的な意味を持つものであることを指摘しています。キリスト教徒に劣るとされるサラセンとしてのアイデンティティは、こうしたモチーフと密接に結びついているのです。

 パロミデスを対象とする研究は依然として盛んに行われており、2020年以降もいくつかの興味深い研究が発表されています。現在の最新の研究としてあげるならば、2020年に出版されたArthurianaに掲載された論文をあげることができます。人種が一つの重要なテーマとして設定されたこの号に収録されたKavita Mudan Finnによる論稿では、パロミデスが人種と宗教の点から優れた騎士・優れた恋人しての役割を否定されているという点が明らかにされています。また、Dana Omirovaの論考は、パロミデスがトリストラムではなく、むしろラーンスロットと重要な共通点を持つことを指摘しています。他にも2021年のArthurianaに収録されたAnnie Lee Narver の “Reconciling the Uncanny: Forgiveness, Caritas, and Compassion for Malory's Palomides”は、フロイトが取り上げた「不気味なもの」という概念を援用しつつ、パロミデスがアーサー王世界に内在する問題を明らかにするような役割をもつことを論じています。

 こうした研究が示すように、パロミデスを対象とした研究は今日も続いています。ここに紹介した論文はマロリー研究の中のごく一部に過ぎませんが、パロミデスはマロリーの描くアーサー王世界において極めて重要な役割を持った人物として注目されており、彼の持つ特異な性質は、物語全体の解釈にも関わるような可能性を秘めていると考えられてきたのです。

 

【おわりに:あるべき姿を映し出す「他者」】
本稿を通して見てきたようにマロリーの『アーサー王の死』に登場するサラセンの騎士パロミデスは、優れた騎士として認められながら、サラセンとしてのその出自ゆえに、定義することが困難な曖昧な立ち位置に置かれ続けます。これまでも多くの研究者の関心を惹きつけてきたパロミデスは、キリスト教が支配的な世界にありながら非キリスト教徒の出自であるというその性質から、『アーサー王の死』全体に通底する価値観や規範意識を確認するための指標として機能しているとしばしば理解されてきました。サラセンの出自でありながら、キリスト教世界において完全なキリスト教徒の騎士、理想の恋人であることを目指す彼の姿は、他の登場人物(あるいは読者)に対して、自らのあるべき姿を再確認することを促すのです。マロリーの描くパロミデスは、こうした意味で、物語世界をより深く理解するために重大な手がかりを与えてくれる存在であり、今後も更なる研究が期待される登場人物の1人であると言えるでしょう。

 

 Notes

^1.本稿における『アーサー王の死』に登場する人物の日本語表記は『アーサー王物語』井村君江訳 (2004-2007)に準拠している。

^2.異教徒の改宗と同化の問題についての詳細な議論は趙(2021)を参照。

^3.Middle English Dictionary, s.v. “Sarasin(e”, meaning 1. (a), (b), and (e): “(a) A Turk; also, an Arab; also, a Moslem”; “(b) a heathen, pagan; an infidel”; “(e) one of the pagan invaders of England, esp. a Dane or Saxon”.

^4.作品からの引用はField (2017)による。カッコ内の数字はページ数、および行数を表している。また、日本語訳は全て井村訳を参照。カッコ内の数字は巻、ページ数を表す。

^5.Lynch 108.

^6.Lupack 388-89.

^7.Cecire 138.

^8.それぞれの研究の詳細な書誌情報は文末の参考文献表を参照のこと。

 

参考文献表
『アーサー王の死』

・Field, P. J. C., editor. Sir Thomas Malory: Le Morte Darthur: The Original Text edited from the Winchester Manuscript and Caxton’s Morte Darthur. D. S. Brewer, 2017.
・トマス・マロリー,『アーサー王物語』オーブリー・ビアズリー挿絵,井村君江訳,筑摩書房,2004-2007年.全5巻.
*『アーサー王の死』の学術校訂本・日本語訳については本ウェブサイト上の長谷川千春氏の記事に詳細な情報がある。

本文で言及された古仏語作品の現代英訳

The Romance of Tristan: The Thirteenth-Century Old French “Prose Tristan” , translated by Renée L. Curtis, Oxford University Press, 1994.
The Song of Roland and Other Poems of Charlemagne, translated by Simon Gaunt and Karen Pratt, Oxford University Press, 2016.

本文で言及されたサラセンが登場する中英語ロマンス作品

・Macrae-Gibson, O. D., editor. Of Arthour and of Merlin. EETS o.s. 268, Oxford University Press, 1973.
・O'Sullivan, Mary Isabelle, editor. Firumbras and Otuel and Roland. EETS o.s. 198, Oxford University Press, 1935.
・Zupitza, Julius, editor. The Romance of Guy of Warwick: Edited from the Auchinleck MS. In the Advocates’ Library, Edinburgh and from MS. 107 in Caius College, Cambridge. EETS e.s. 42, 49, 59, Oxford University Press, 1883, 1887, 1891; repr. as I vol., 1966.

サラセンが登場するその他の中英語ロマンスの日本語訳

・中世英国ロマンス研究会訳,『中世英国ロマンス集』篠崎書店,1983, 1986, 1993, 2001.第1−4巻.

パロミデスについての研究(『アーサー王の死』を中心に)

・Armstrong, Dorsey. “Postcolonial Palomides: Malory's Saracen Knight and the Unmaking of Arthurian Community”, Exemplaria, vol. 18, 2006, pp. 175-203.
・Cecire, Maria Sachiko. “Barriers Unbroken: Sir Palomydes the Saracen in ‘The Book of Sir Tristram’.” Arthurian Literature, vol. 28, edited by David Clark and Kate McClune, Boydell & Brewer, 2011, pp. 137-154.
・Cooper, Helen. “The Book of Sir Tristram de Lyones.” A Companion to Malory, edited by Elizabeth Archibald and A. S. G. Edwards, D. S. Brewer, 1996, pp. 183-201.
・Dulin-Mallory, Nina. “‘Seven trewe bataylis for Jesus sake’: The Long-Suffering Saracen Palomides.” Western Views of Islam in Medieval and Early Modern Europe: Perception of Other, edited by David R. Blanks and Michael Frassetto, St. Martin’s Press, 1999, pp. 165-72.
・Finn, Kavita Mudan. “‘Many straunge sygnes and tokyns’: The Affective Power of Thomas Malory’s Palomides.” Arthuriana, vol. 31. 2, 2021, pp. 108-123.
・Hoffman, Donald L. “Assimilating Saracens: The Aliens in Malory’s Morte Darthur.” Arthuriana, vol. 16. 4, 2006, pp. 43-64.
・Holbrook, Sue Ellen. “To the Well: Malory’s Sir Palomides on Ideals of Chivalric Reputation, Male Friendship, Romantic Love, Religious Conversion – and Loyalty.” Arthuriana, vol. 23. 4, 2013, pp. 72-97.
・Huot, Silvia. “Others and Alterity”, The Cambridge Companion to Medieval French Literature, edited by Simon Gaunt and Sarah Kay, Cambridge University Press, 2008, pp. 238-50.
・Lupack, Alan. The Oxford Guide to Arthurian Literature and Legend. Oxford University Press, 2005.
・Lynch, Andrew. Malory’s Book of Arms: The Narrative of Combat in Le Morte Darthur. D. S. Brewer, 1997.
・Mahoney, Dhira B. “‘Ar ye a knyght and ar no lovear?’: the Chivalry Topos in Malory’s Book of Sir Tristram”, Conjunctures: Medieval Studies in Honor of Douglas Kelly, edited by Keith Busby and Norris J. Lacy, Brill, 1994, pp. 311-24.
・Narver, Annie Lee. “Reconciling the Uncanny: Forgiveness, Caritas, and Compassion for Malory’s Palomides.” Arthuriana, vol. 30. 2, 2020, pp. 20-47.
・Omirova, Dana. “Love out of Measure: Comparing Malory’s Palomides and Lancelot.” Arthuriana, vol. 31. 1, 2021, pp. 78-91.
・Pyle, Christine. “Sacramental Unity for a Saracen: Malory’s Conflicted Knight Palomides.” Arthuriana, vol. 27. 4, 2017, pp. 22-38.
・Schwartz, Caitlyn. “Blood, Faith and Saracens in ‘The Book of Sir Tristram’.” Arthurian Literature, vol. 28, edited by Clark and McClune, 2011, pp. 121-35.
・Wheeler, Bonnie. “Grief in Avalon: Sir Palomydes’ Psychic Pain.” Grief and Gender, 700-1700, edited by Jennifer C. Vaught with Lynne Dickson Bruckner, Palgrave, 2003, pp. 65-77.
・小宮真樹子,「クェスティング・ビーストの探求―トマス・マロリーの不思議な動物」『幻想と怪奇の英文学II―増殖進化編』春風社:2016,pp. 166-81.
・趙泰昊,「中英語ロマンスにおける異教徒の改宗と信仰の証明」『信州大学人文科学論集』第9号(第2冊), 2022, pp. 163-82.

サラセン表象についての研究やその他の関連書籍

・Akbari, Suzanne Conklin. Idols in the East: European Representations of Islam and the Orient, 1100–1450. Cornell University Press, 2009.
・Blanks, David R., and Michael Frassetto, editors. Western Views of Islam in Medieval and Early Modern Europe: Perception of Other. St. Martin's Press, 1999.
・Calkin, Siobhain Bly. Saracens and the Making of English Identity: The Auchinleck Manuscript. Routledge, 2005.
・Daniel, Norman. Heroes and Saracens: An Interpretation of the Chansons de Geste. Edinburgh University Press, 1984.
・Metlitzki, Dorothee. The Matter of Araby in Medieval England. Yale University Press, 1977.
・Speed, Diane. “The Saracens of King Horn.” Speculum, vol. 65, 1990, pp. 564-95.
・Strickland, Debra Higgs. Saracens, Demons, and Jews Making Monsters in Medieval Art. Princeton University Press, 2003.
・Tolan, John V. Saracens: Islam in the Medieval European Imagination. Columbia University Press, 2002.

 
記事作成日:2023年12月3日  
最終更新日:2023年12月3日

 

 

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